デュッセルドルフ市と日本の関係の歴史は1800年代にまでさかのぼります。1859年の7月1日に、デュッセルドルフのビジネスマン(後に在日副領事)であるLouis Knifflerという人が、出島に初のドイツの商社を設立し、その後日本とドイツの間に友好及び通商条約を結びました。

 

出島といえば、日本が鎖国をしていたあの時代に、唯一欧米人に対してアクセスの許された場所です。Louis Knifflerは、銃器や船舶などを輸入し、後藤象二郎や岩崎弥太郎とも取引があったそうです。

 

時は江戸時代、鎖国の末期です。公式の記録によると、デュッセルドルフで初の日本人の滞在は、1862年、38人の幕府の使者だったそうです。

 

1904年には芸術・工芸・庭園博覧会で日本庭園と茶室・茶道が紹介されました。日本人の住民登録第1号は1904年です。でもその後第二次世界大戦前に、日本人はベルリンとハンブルグに集まったそうです。それはやはり港へのアクセスの関係だと思われます。

 

そして大戦後、復興に向けた日本の鋼材・建材の需要のために、日本の教科書にも出てくるくらい有名なルール工業地帯がその供給元として浮かび上がりました。

 

デュッセルドルフはルール工業地帯へのアクセスポイントの都市として選ばれ、1951年に日本人のビジネスマンの第1号が出現し、1952年には3者となり、1955年には三菱系列の会社が法人として登記しました。

 

三菱の正式な登記は、日系企業としての第1号だったそうです。そしてその後少しずつ日系の企業が増えて、デュッセルドルフは、「ルール工業地帯の仕事机」として発展していったそうです。

 

1962年にはJETROが設立され、1960年代に日本人の数は千人にまで増えたそうです。1963年には岸首相と大きく関係する最初の和食レストラン「日本館」が現在のホテルニッコーの右隣(*)オープンしました。

 

* ホテルニッコーは1979年にオープン

 

1964年に日本人クラブ、1965年に総領事館、1966年に日本商工会議所、1971年に日本人学校、1974年に(欧州で最初の)日本書籍店が次々と誕生しました。

 

このようにしてデュッセルドルフはドイツで一番多くの日本人が集まる町となったそうです。

 

 

出展: 市の歴史資料室(Stadtarchive) および

市の資料、デュッセルドルフと日本友好関係の歴史より