ドイツの歴史 1.871年の建国とその後

紀元前8世紀頃に、ヨーロッパ中部および西部系のケルト人がドイツに住みつきました。ケルト人は他の民族が当時まだ知らなかった鉄の精錬法を知っていたことから、その鉄で作った鋭い刀や槍を使って他の民族を征服しました。ローマ人はケルト人をガリア人、そしてケルト人が住んだ地域をケルトと呼びました。

 

紀元前3世紀頃に、北ヨーロッパに住んで部族国家を作っていたゲルマン人が南下して、ケルト人を圧迫しだし、紀元前1世紀の後半にはラテン系イタリアのローマが南からドイツに侵入しました。

 

ローマの初代皇帝、カエサル(ジュリアス・シーザー 紀元前100年~44年頃)は養子のアウグストゥス(オクタビアヌス 紀元前27年~紀元後14)を、紀元前9年頃にドイツに進軍させましたが、ドイツ北西のトイトブルグでゲルマン軍と戦って破れ、それ以降ゲルマンの南下が加速しました。その頃のゲルマン人はローマに侵入し、ローマの傭兵や農業従事者となりました。

 

486年頃には、ゲルマンの1部族であるフランク族がかってのガリアの地を支配するようになり、それがフランク王国の始まりとなりました。フランク王国はその後約500年続き、現在のドイツ、フランス、イタリアに相当する地域を支配しました。

 

フランク王国の名君はカール(シャルマーニュ)1(大帝、在位768年~814)ですが、彼はその頃勢いを強めていたイスラム教のピレネー山脈越えの進入を防ぎました。そのことに感謝したローマ教帝(法王)レオ3世は800年、カール大帝にローマ皇帝の冠を授け、以後彼はローマ皇帝を名のるようになりました。

 

843年、カール大帝の死後、フランク王国は東フランク(ドイツの原型誕生)、西フランク、中部フランクの三つに分裂しました。東フランクと西フランクはほぼ現在のドイツとフランス、中部フランクはその中間地域に相当します。870年に中部フランクの北の部分を東フランクと西フランクが分割・併合して、現在のほぼ南イタリアに相当する地域を中間地域とし、現在のドイツ、フランス、イタリアの原型が作られました。


ドイツが強国となり始めたのは連邦国の1つであるザクセン(東ドイツ南部)朝のオットー1(大帝、在位936年~973)の時代で、彼は東ヨーロッパから侵入したハンガリー軍を撃退したりしました。962年にローマ教帝ヨハネス12世はオットー1世をローマによんで、改めてローマ皇帝の冠を授けました。こうして神聖ローマ帝国(962年~1.806)がスタートしました。

 

ですが神聖ローマ帝国の勢いが強かったのは最初の2世紀だけで、その後は連邦国家の分裂によって単なる名目上だけの存在となりました。1.440年頃からは、オーストリアのハプスブルグ家が歴代の神聖ローマ帝国の皇帝となりました。その頃のドイツは、現在のドイツとその南東にあるオーストリアを含む地域を指しています。

 

1316世紀には北ヨーロッパの商業権を支配するハンザ同盟という名の都市同盟が栄えました。ハンブルグやリューベックなどの北海やバルト海に面した北ドイツの都市です。その最盛期の14世紀後半には約100の都市が参加して、共同で海上交通の安全や利益を確保しました。

 

こうして生じた経済繁栄の利用を考えたのが、大きな宮殿に住んで贅沢な暮らしをまかなう必要のあったローマ教帝です。教帝が考えた集金方法の1つは、免罪符の販売でした。免罪符を売る僧侶たちは、村の広場に賽銭箱を置き、この中でお金がチャリンと音を立てるたびにあなたの罪は1つずつ消えるといって道行く人たちに献金を呼びかけました。

 

このあまりにひどいやり方に憤慨して立ち上がったのが、中部ドイツ、アイスレーベン生まれの神学者、マルチン・ルター(1.4831.546)です。人間を救えるのは神だけである。免罪符を買えば罪が消えるなどという教帝はおのれの罪を悟るべきだといい、1.5171031日に教会の門に95ヶ条の意見をまとめて貼り出しました。教帝はマルチン・ルターを破門しました。

 

1.555年には新教徒(ルター派、プロテスタント)の反抗に譲歩した教帝カール5世がアウグスブルグでの会議で都市や諸侯に新教と旧教(カソリック)を選ぶ自由を認めました。これがアウグスブルグの宗教和議です。

 

宗教改革は、旧教徒と新教徒との間の戦争である30年戦争(1.6181.648)をも引き起こし、オーストリア、スペインなどが旧教徒側を、イギリス、フランス、オランダ、デンマーク、スウェーデンなどが新教徒側を助けました。

 

マルチン・ルターの功績は宗教改革だけではなく、旧約聖書をヘブライ語に、新約聖書をギリシャ語の原典からドイツ語に翻訳し、当時ドイツの各地で多くの市民が読めなかった聖書を市民に近づけました。その翻訳聖書の印刷に役立ったのが、ヨハネス・グーテンベルグの発明した印刷機です。


ドイツ+オーストリアから現在のドイツに移り変わるプロシア(プロセイン)王国(1.7011.871)がスタートしたのが1.701年です。プロシア王国の第2代国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム1(在位1.7131.740)は、兵隊王と呼ばれた王で、いつも軍服を着て過ごし、強い軍隊を養成しました。その子供が大王と呼ばれるフリードリッヒ2(在位1.7401.786)です。

 

フリードリッヒ2世が即位した1.740年に神聖ローマ帝国(オーストリア)皇帝カール6世が亡くなり、オーストリア継承戦争(1.7401.748)と、7年戦争(1.7561.763)がおきました。

 

オーストリア継承戦争は、カール6世の後を継いで長女のマリア・テレジアが即位したことに異議を唱える国々が現れたのに乗じて、フリードリッヒ2世が、父の残した強力な軍隊をひきいて資源に富んだオーストリアのシレジアに攻めこんだために始まった戦争です。イギリスとロシアがオーストリアに味方しましたが、この戦争でシレジアはプロシア領となりました。

 

7年戦争では、フランスとロシアがオーストリアに味方しましたが、後にロシアがプロシア側についたためにプロシアが勝ち、プロシアを中心としてドイツが統一される糸口が作られました。

 

ベルリンの郊外のポツダムの丘の上に、パリのベルサイユ宮殿に憧れたフリードリッヒ大王が1.7451.747年に建てたのがサンスーシ(無憂)宮です。サンスーシは、憂い(心配)ごとがないことを示すフランス語です。ロココ式の建物と美しい庭園は、18世紀のヨーロッパ建築を代表する1つです。

 

1.789年におきたフランス革命とそれに続くナポレオン戦争では、オーストリアは何度もナポレオン1(1.7691.821)軍に負け、その勢いが弱まりました。1.806年にはロシアと同盟したプロシアもナポレオン軍に破れ、ナポレオンはベルリンに入城しました。この年にナポレオンの命令でオーストリアにあった神聖ローマ帝国が消滅し、オーストリア帝国になりました。

 

ナポレオン軍はその後1.812年にロシア遠征に失敗し、1.813年の諸国民戦争でイギリス、プロシア、オーストリア、スウェーデン、ロシア連合軍とライプツィヒで戦って破れ、連合軍は1.814年にパリに入城しました。

 

ウィーン会議(1.8141.815)が開かれて、ナポレオンはエルバ島に流され、約40の独立国からなるドイツ連邦が作られました。この時代のドイツはいくつもの独立国から成っていたために、政治的には困難を極めていましたが、その代わりに文化の花が開き、ヨハン・W・ゲーテ(1.7491.832)、ヨハン・C・シラー(1.7591.805)、イマニュエル・カント(1.7241.804)、ゴットフリード・W・ライプニッツ(1.6461.716)、ヨハン・S・バッハ(1.6851.750)、ルードビッヒ・ベートーベン(1.7701.827)などが活躍しました。

 

ドイツ連邦が作られた1.815年に生まれ、鉄血宰相と呼ばれたオットー・F・ビスマルク(1.8151.898)は、プロシア首相として軍備を増強し、プロシア・オーストリア戦争(1.866)およびプロシア・フランス戦争(1.870/71)に勝ってプロシアを中心にするドイツ帝国を成立させ(ドイツ帝国誕生)、プロシア王国が幕を閉じたことになります。

 

以後ビスマルクは、1.890年にヴィルヘルム2世に罷免されるまで三帝同盟(フランスの孤立を狙うドイツ、オーストリア、ロシア)、ベルリン会議(ロシアの孤立を狙うドイツ、オーストリア、イギリス、ロシア)、三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)を通じて平和外交の維持に努めました。三国同盟は、そのまま第一次世界大戦の三国同盟となりました。

 

ドイツ帝国3代目で最後の皇帝であるヴィルヘルム2世は、1.890年にビスマルクを罷免し、それまでとは逆の世界侵略政策を展開して、それを新航路政策とよびました。ベルリンからトルコの首都ビザンティウム(イスタンブール)を経てアラビアのバクダート(イラク)へいたるバクダート鉄道を計画し、これを3B政策とよびました。

 

これに対してイギリスはカルカッタ(インド)、カイロ(エジプト)、ケープタウン(南アフリカ共和国)を結ぶ同様な計画を発表してこれを3C政策とよびました。両者とも結局は完成せず、両政策は第一次世界大戦の遠因となりました。

 

第一次世界大戦は、三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)と、これに対する三国協商(イギリス、フランス、ロシア)との対立がきっかけとなっておきた大戦ですが、その直接のきっかけは、1.9146月におきたサラエボ事件です。オーストリア皇太子夫妻が自国領のボスニア州の州都サラエボでセルビア(ユーゴスラビア)の反オーストリア青年によって暗殺されました。

 

三国同盟側にはトルコ、ブルガリアなどが、三国協商側には三国同盟を脱退したイタリア、ベルギー、日本、アメリカ、中国などが加わりました。日本は、1.902年に締結した日英同盟にもとづいて参戦し、ドイツの中国での根拠地である青島(チンタオ)や太平洋のドイツ領諸島を占領しました。

 

ドイツは中立国のベルギーを通ってフランスに侵入したり、ロシア軍を破ったりしましたが、無制限潜水艦戦を展開したために、1.917年にアメリカなどが三国協商側に加わりました。同じ年の11月には革命がおきて帝政が崩壊し、ロシアが離脱しました。

 

ドイツ北部のキール(Kiel)の軍港では、ドイツの水兵たちが即時講和を求めて蜂起し、騒ぎがドイツ全土に広がり、1.91811月にドイツが降伏することによって戦争が終結しました。この第一次世界大戦をきっかけとして、ロシア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、トルコの4大帝国が崩壊し、アメリカの発言権が著しく強くなりました。

 

ドイツ帝国に代わって成立したワイマール共和国(1.9181.933)では、アドルフ・ヒットラー(1.8891.945)が権力を握り、パウル・ヒンデンブルグ大統領(1.8471.934)死後の1.934年に総統となって、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国につぐ第3帝国(1.9341.945)を作りました。

 

その頃ロシアでは、ロシア帝国に代わって1.922年に成立したソビエト連邦では1.925年にヨシフ・スターリン(1.8791.953)が権力を握り、イタリアでは1.935年のエチオピアへの侵入によってベルト・ムッソリーニ(1.8831.945)の勢いが強まりました。

 

独ソ不可侵条約が結ばれた1.939年の9月にドイツがポーランドに侵入し、イギリスとフランスがドイツに宣戦して第二次世界大戦が(1.9391.945)始まりました。ソ連もポーランドに侵入し、ドイツとソ連がポーランドを分割しました。1.9404月にはドイツはデンマーク、ノルウェーに侵入しました。

 

1.941年には独ソ不可侵条約(1.939)に反して独ソが開戦し、10月~12月にはドイツがモスクワを攻撃して失敗しました。12月には日本がアメリカの真珠湾を攻撃して日本とアメリカが開戦し、第二次世界大戦は太平洋地域にまで拡大しました。

 

5.4.13 JH